※現パロ
※燭台切光忠=長船光忠
大倶利伽羅=大倶利伽羅廣光
聞き慣れたアラームの音に、意識が覚醒していく。瞼を擦り、欠伸を零しながら彼女は枕元のチェストにある時計に手を伸ばした。
「……はちじ、はっぷん……」
寝起きで掠れた声が読み上げたのは、休日に彼女が目覚める時間にしては幾分か早い時刻だった。
もう一度寝ようにもどうやら頭は冴え始めているようで眠れそうにはない。仕方なく温かな布団の中で伸びをして、彼女はのそのそとベッドから起き上がった。
「さ、っむ……っ」
ベッドから降りた瞬間に服をすり抜けたかのように肌を打つ寒さ。言葉とともに吐き出した息は白かった。冬にも関わらず、ここ数日は温かい気温だったから尚更その寒さは体に堪える。暖房の電源を付け、昨夜寝るときに脱いで椅子に引っかけておいたパーカーを上に羽織りつつ、彼女は窓際のカーテンをそっと横に引いた。
思わず、わ、と声が漏れる。
温度差で曇った硝子の向こう側には、ひらひらと白いものが舞っていた。窓を開けるとそれは予想通り雪で、至るところに降り積もり、一面を銀色に染め上げていた。確かに美しく、都会の喧噪を忘れるくらいに神秘的な光景だと言えるだろう。
「……今日じゃなかったら、嬉しかった、んだけどなあ」
窓の鍵を施錠して、カーテンを再び閉めた彼女は、思わずそうぼやかずにはいられなかった。
何気なくやった視線の先には小さな丸テーブル。その上には二枚のチケットが無造作に置かれている。それは週末の土曜日――つまり今日、恋人とともに行く予定だった水族館のチケットだった。
――大倶利伽羅廣光。ひどく珍しい名字の、幼稚園時代からの幼馴染みが彼女の恋人だ。今は商社系の雑誌によく載るような大きな会社で働く、バリバリのエリートサラリーマンである。
それに彼の褐色の肌に暗色のウェーブがかった髪、黄金色の瞳というどこか異国人めいた容貌はとても目を引いた。一匹狼気質だというのも女子にはたまらないらしい。彼女が知るだけでも相当な数の女子が告白しては玉砕している。
恋人がいると知られているはずだが、未だに社内の女子に告白されることもあるんだよ、と苦笑混じりに教えてくれたのは、もうひとりの幼馴染みである長船光忠だった。彼もまた大倶利伽羅と同じ商社で働くエリートで、世に言う《スパダリ》を絵に描いたような男である。
それを聞いた彼女はただふぅんと頷き、何でもないことのように振る舞ったが、心中複雑だったのは言うまでもない。自慢げに胸を張れるには、彼女には自信がなかった。
彼女は好きだから、大倶利伽羅の傍にいたかった。それはけして長い間幼馴染みという関係を形成してできた親愛の情から来るものではなく、異性として恋しいと思う気持ちから成るものだ。現にほぼ同じくらいの異性の幼馴染みである光忠にそんな気持ちを抱いたことはない。
でも、じゃあ大倶利伽羅は、どうなのだろう? そう聞かれたら、彼女は返答に困ってしまう。少なからず大事にして貰えている気はするが、それが果たしてどんな感情から来るものなのか、未だに答えを貰えたことがない。
付き合ったのは大学三年の春で、それも酔っぱらった勢いで彼女が想いを告げ、それに大倶利伽羅が素っ気なくイエスの返事をしたことが始まりだった。謝り倒して忘れてと言ったのに怪訝そうな顔で嘘だったのかと問われたら本音を言うことしかできず。――そうして、ふたりは付き合い始めた。
幼馴染みから恋人という関係になり、すでに片手の指の本数ぐらいの年は経っている。もちろん学生時代から数え切れないほどデートもしたし、お互いの家を行き来することも少なくない。
それでも不安になるのは、一度も大倶利伽羅の口から《好き》という言葉を聞いたことがなかったからだ。社会人になってからはお互い忙しく、学生時代ほど頻繁に会えなくなった。ある程度融通を利かせてくれる職場に勤めている彼女はともかく、会社で大きなプロジェクトに関わっているという大倶利伽羅の生活は慌ただしく、土曜日に出勤になるなんてことは頻繁だ。
そのため約束していたデートがなくなる、ということも頻繁にあって、今日予定していた水族館デートは、昨夜彼から掛かってきた電話で、なしになった。
降雪予報も出ていたため、もしかすると行けなかったことを考えれば良かったのかもしれないが、それより今は、無事に出勤できたかが心配だった。
念のため、連絡アプリにメッセージを入れて、彼女は温まり始めた部屋で着替えを始める。
――今日は部屋から出ないで、一日部屋にいようかな。
幸いにも一日凌ぐ程度の食料はある。
そうと決まれば彼女の行動は早く、まずはとコーヒーを入れるため、キッチンへと向かった。
▽
クッションを抱え、コーヒーを啜っていた彼女のスマートフォンが着信を告げたのは、昼に差し掛かろうという時間だった。
朝に一度連絡をした返信が来て、仕事頑張ってねと返してからベッドに放置していたそれを手に取り、着信者の欄に記載されている名前を見て、彼女は急いで通話ボタンを押す。
「……も、もしもし、廣くん?」
《……ああ》
着信者の欄には、《大倶利伽羅廣光》の文字。恐る恐る呼び掛けると、低い声で返事が返ってくる。少し昼には早いが、休憩なのだろうか。それにしても連絡をくれるなんて珍しい。そう思いながら彼女は言葉を返す。
「お仕事お疲れ様。どうしたの? 何かあった?」
《……》
「廣くん?」
用件を尋ねると、だんまりとしてしまう。首を傾げてもう一度どうしたの? と尋ねると、少しの沈黙のあと、
《……お前は、今どこにいる》
と、返ってきた。驚きのあまり、ぱちくりと瞬きをしてしまう。
「ええと、部屋に、いるけど」
《わかった。――今から、》
「へ?」
《……今から、行く》
耳元に予想外の彼の言葉が届き、思わず思考が止まってしまった。我に返ったときにはすでに通話は切れていて、彼女は慌ててだぼだぼの部屋着を小綺麗なものに変えて薄く化粧をする。すっぴんも何もかも知られていて今更のような気もするが、好きな人の前では少しでもマシな姿でいたかった。
大倶利伽羅がやってきたのは電話があってから三十分ほどしてからで、チャイムの音で玄関へと向かうと、スーツの上にコートを羽織った大倶利伽羅がそこに立っていた。職場から彼女の住むアパートがある最寄り駅まで三十分では着かない上に、今日は降雪で電車のダイヤも乱れている。電話をした時点ですでに近くにいたのだろう。
「廣くん、えと、お疲れ様。雪大丈夫だった?」
「……ああ」
「良かった。……あ、部屋暖まってるから入って。すぐにコーヒー淹れるね。お昼ご飯は食べた?」
「いや、……買ってきた。お前の分も」
「へ?」
今日はどうにも朝から間抜けな声ばかり漏らしている気がすると、彼女は差し出された紙袋に視線を落とす。それは駅ビルに入っているサンドイッチショップのもので、開けると中には色とりどりの野菜の挟まったサンドイッチと、オーソドックスなハムとチーズのサンドイッチが詰められていた。
驚き顔で見上げると、大倶利伽羅は少し表情を和らげる。
普段は澄ましているその顔が柔らかくなって、胸が少し高鳴った。視線を合わせるのが気恥ずかしくなって、彼女は再び袋の中身に視線を落とし尋ねる。
「ど、どうしたの、これ。って言うか、仕事は……?」
「雪の影響がどうなるかわからないから返された」
「あ、そっか、夕方からまた雪酷くなるって言ってたっけ……じゃああんまり一緒にいれないね」
「は?」
大倶利伽羅が脱いだコートを受け取るべく、彼女が手を伸ばす。だがその手にコートが乗る前に、おい、と低い声が頭上から降ってきた。咄嗟に彼女は顔を逸らす。長い付き合いで、その声音は彼が怒っているものなのだと知っていた。……何故怒っているのかは、わからなかったが。
「こっちを向け」
「やだ。……廣くん絶対怒ってる」
「……」
「ほらー!」
「お前が、人の言葉を、湾曲して、受け取るからだ」
「何で単語で区切るの?! しかも湾曲して、ってどういう、」
彼女が視線を上げると、大倶利伽羅は眉間に皺を寄せて、それでもじっと彼女を見つめていた。それからため息を吐いて傍らのバッグを開けると、中から見慣れたレンタルショップ店の布袋を取り出し、彼女へと差し出す。
「……借りてきた。見たかったんだろう」
紙袋を腕の中に抱え、差し出されたそれを自由な手で開ける。中にはプラスチックケースに入った円盤が二枚。それは半年ほど前に上映された、洋画のものだった。結局仕事や都合が合わなかったりで観に行くことができず、上映期間が終わってしまったのだ。
上映が終わってしまったと聞いて、それを話したことはあったけれど、覚えていてくれたことに驚き、彼女は視線を大倶利伽羅と円盤の間で移動させる。
手元にある円盤は改めて確認しても二枚あった。一枚大体二時間弱で、連続して観たら夕方になってしまう。今までの会話を思い出して、もしかしたら、と彼女の頭にひとつの考えが浮かぶ。そうすればすべての考えが繋がるわけで――。
その間に大倶利伽羅は靴を脱ぎ、部屋へ上がろうとしていた。
「あ、りがとう。――すぐにお昼ご飯の支度、するね。ご飯食べながら観てもいい?」
「勝手にしろ」
「ん」
改めてコートを受け取ってハンガーに掛ける。
――連絡をくれたのが昼前だったから、昼食を食べなくて良かったと胸をなで下ろす。
自分の分のコーヒーも淹れ直し、マグカップをふたつ、丸テーブルに置く。次いでデッキの準備をするため、一度落としかけた腰を上げる。
しかし伸びてきた腕に手首を掴まれ、彼女は動きを止めた。この部屋にいるのは彼女と大倶利伽羅だけ。戸惑いがちに視線を上げると、大倶利伽羅の視線と目が合った。
――やはり今日の彼は、どこかおかしい。
「廣くん、その、今日何か……変だよ? 誰かに何か変なこと吹き込まれた?」
「……」
問いかけるも返事はなく、けれど手首を放してくれそうな素振りもない。もう一度名前を呼ぼうとして、――その前に掴まれた腕を引かれた。
抱き留められたのは彼の腕の中で、尚更困惑する。いつも大抵スキンシップを強請るのは彼女の方で、それを何だかんだ言いつつ叶えてくれるのが大倶利伽羅だった。
けれど今の状況は何の脈絡もなく起こったものだ。どんな行動に出るのが正しいのかわからず、しかし抱き締めてくれるその腕の温かさは変わらない。ゆっくりと頭が落ち着いてきて、そっと背中に腕を回す。
ふたりともそのまま、口は開かなかった。
どれくらいそのままでいただろうか。先に口を開いたのは、発端を作った大倶利伽羅だった。
「……光忠に、俺は言葉が足りないと言われた」
――伽羅ちゃん、幼馴染みだったからって、何も言わないのに全部気持ちが伝わってるって思ったら駄目だよ。寧ろ、幼馴染みだったからこそ、ちゃんと言葉にしないと不安になることだってあるんだから。
――ほら、嬉しいことに今日はもう帰れるんだから、あの子の観たがってた映画でも借りてふたりで過ごしなよ。
ぽつぽつと話されるその話を聞いて、脳裏に説教をする光忠の姿が浮かんで思わず笑ってしまう。一見すると世話焼きとは遠い、どちらかと言えば派手な容姿をしているのに、面倒見のいいその性格がひどく現実離れしている。
「……俺は、ただの幼馴染みには、こんなことはしない。お前の告白に頷いたのは、こういう関係になりたいと思ったからだ」
「っひろ、く、」
慎重差を孕んだ低い声が、耳元に落ちる。
彼女の脳がその意味を理解したときにはもう、涙腺は緩みきっていた。大倶利伽羅のスーツに雫がひとつ落ちる。
「っすき、だいすき」
「ああ」
返ってきた頷きは、とても優しい色を纏っている。
ふたつ、みっつ、と彼女の頬を雫が滑り落ちていった。
「――……」
囁かれた初めての愛の告白は、砂糖菓子のように甘ったるい響きを持って、彼女の耳へと落ちていった。